ボクが先日まで1年間住んでいたのは東京・赤坂。
赤坂というと年配の方は「色街」のイメージ。
はたまたTBSとテレビプロダクションの集まる「芸能界の街」のイメージ。
人によっては鹿島建設やデザイン事務所が集まることから「建築とデザインの街」?
若い人には「サカス」や「ACTシアター」からミュージカルや演劇の街のイメージかな?
ボクは18歳までをこの街で過ごしました。
ボクのイメージする赤坂は、皆さんと全然違うのではないかと思います。
今日は、そんな「ちょっと違う赤坂」を御紹介したいと思います。
まずはここ。

京都?って感じじゃないですか?
「氷川神社」です。

ボクの子供の頃の遊び場。
東京に残る江戸時代の建築物はそんなに多くないと思いますけど、
その一つです。
暴れん坊将軍吉宗の時代の社殿がそっくり残っているのは結構珍しいですよ。

境内も都心とは思えない静寂さ。

樹齢何百年って古木がいくつもあるんですよ。


これは正面の道路。

写真がヘタで雰囲気が出ないのですが、実際はもっと樹が鬱蒼と茂って「昼なお暗し」って感じです。
道路右側が氷川神社。左はアメリカ大使館の官舎。
アメリカ大使館官舎の場所は信州松代藩の江戸屋敷でした。
司馬遼太郎氏は「街道をゆく」でこの道を取り上げ
「基本的には江戸時代と景観が変わっていないのではないか」
と仰っています。
都心にぽっかりと残った江戸。
氷川神社の場所は元禄の頃まで三次(広島県)藩邸でした。
三次藩主の娘が忠臣蔵の浅野内匠頭夫人。
内匠頭が切腹し赤穂浅野家がなくなった後、夫人は実家であるこの藩邸に戻りました。
討ち入りを決意した大石内蔵助は、最期の挨拶にこの藩邸を訪れます。
ま、長くなるので省略しますが、忠臣蔵の名場面「雪の南部坂の別れ」ですわ。
その南部坂

ここも、建物はともかくとして、基本的な雰囲気は忠臣蔵の頃と変わらないんじゃなかろうか?
氷川神社の裏手にまわると
ここは金沢の武家屋敷か?ってところもありますよ。

というわけで、皆さんの知らない「プチ江戸」赤坂を御紹介しました。
そういえばむかし、ボクのことを
「下級武士の次男坊」と形容した人がいます。
どういう意味だかよくわかんないんですが、
まっ、そういう雰囲気を漂わせてるらしいです。
「プチ江戸」で育ったことを思うと、案外正しいかもしれませんね。
そうそう、当店の屋号は「氷川神社」から取りました。
ところで、赤坂の下級武士といえば、この人。

氷川神社から2-3分歩くと
幕末の頃、勝海舟が住んでいた場所です。

安政6年にここ引っ越し、江戸無血開城の頃までを過ごしました。
歴史の表舞台で最も活躍していた時期に重なります。
勝海舟は本所生まれですが、ここに住む前も赤坂に屋敷があり、明治以後も赤坂で過ごしました。
文久2年12月9日、坂本龍馬が初めて勝を訪ねたのはここです(初対面ではないという説もある)。
ドラマですと、まだ単純な異国嫌いの青年だった龍馬が、「メリケンかぶれ」の勝を斬るつもりで屋敷に乗り込む。
勝は「おまえさんオレを斬りに来たね。まあ斬るのはいつでもできるから、ちょっとオレの話を聞きなよ」とかなんとか言って、世界情勢をこんこんと説く。
龍馬はすっかり感服し、その場で「勝先生! 弟子にしてつかぁさい」なんつって土下座する場面ですね。
龍馬は神田の千葉道場からここまで歩いてきたはずですから、

この道を奥から手前にかけて歩いてきたのでしょう。
道筋も道幅も幕末の頃と変わらないはずです。